「心で考える」。1番大切で、1番難しいこと。

大河ドラマ 「西郷どん」第35話 誰の心にも鬼はいる(感想)

今回の「西郷どん」ではとうとう吉之助が「戦の鬼」になってしまいました。

民が一番大事だと言っていた吉之助の姿はそこにはなく、慶喜を討つことばかりを考え、しかもそのためには手段を選ばないという非情な男になってしまいました。

異国に薩摩を売ろうとした慶喜に対しての吉之助の怒りはすさまじく、慶喜を討つことにこだわりつづけました。

慶喜を討つ口実をつくるため、慶喜を朝敵にするために、吉之助は様々な挑発行為にでます。
その中でも、もっとも卑劣な行為が江戸を混乱に陥れるというものでした。
藩士を使い、旧幕府軍を挑発するために江戸で放火などを行い挑発します。

これに怒った旧幕府軍は薩摩藩邸を焼き討ちにしました。
吉之助達の卑劣な策により、ついに薩摩は旧幕府軍と戦さをする口実を作ることに成功します。

以前の吉之助はいかに戦さをせず、いかに民や仲間に被害がでないようにするのかを考え行動していました。
しかし、今は江戸に住む民、江戸に住む仲間を犠牲にする策をとり、以前のように他人の痛みを考え行動しなくなってしまいました。
弟の信吾が「兄さぁは戦の鬼になってしもた」と失望するほど、吉之助は「慶喜を討つこと」に取り憑かれてしまいました。

あの優しかった吉之助がここまで変わるとは驚きですよね。
でもこれは誰にでも起こりうることだなと、個人的には感じています。

どんなに優しい人でも私は「心に鬼が潜んでいる」と思っています。
普通の環境にいればその鬼はなかなか顔をだしませんが、自分のおかれた環境によりその鬼が顔を出すこともあります。

吉之助のように「憎しみ」や「怒り」などに取り憑かれた時もそうですし、自分が周りの良くない環境に影響されてしまった時にもおこりうることだと思います。

「憎しみ」や「怒り」などに取り憑かれてしまうと、もちろん人は「憎しみ」や「怒り」の心で行動してしまいます。
そうなると「優しさ」の心を持って行動していた時のように、他人の痛みに目を向ける余裕はなくなってしまいます。
吉之助のようにどんなに優しい人でもこのように余裕をなくしてしまうと、残酷な心で行動してしまう可能性があると思います。

また自分が環境に影響されてしまい考えが変わることもあります。
吉之助や薩摩藩のように「力」をもつような環境におかれると、その「力」を使って行動することが当たり前になってしまうものなのかもしれません。
昔は純粋だったのに、大人になるにつれて汚れてしまうことがあるように、自分のおかれる環境によっては良くないことでも当たり前のように感じてしまうこともありえると思います。

最近のパワハラの問題などはまさにそのような良くない環境に影響されて、悪いことが平気でできるようになってしまう例だと思います。

誰の心にも鬼は潜んで、心の優しい誠実な人だと言われるような人にも、心の中に鬼はいると思います。
吉之助のような人でさえ、心の状態や環境によって鬼がでてしまうことがあるのですから、私自身も、つねに自分の心と向き合い「何が正しくて何がいけないのか」を考え生きていかなければいけないと思います。

心に鬼が現れないように、日々の心がけが大切だと感じた今回の「西郷どん」でした。

まぁ、私の場合は「力」を持つようなことはなさそうなので(地位を得ることはなさそうなので 笑)、その点は安心といえば安心ですが(涙)

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