「心で考える」。1番大切で、1番難しいこと。

「当たり前」に込められている「想い」

新年明けましておめでとうございます!
数少ない読者のみなさま、今年もよろしくお願い致します!笑

新年最初の記事ということで、今日は、私が今年1番大切にしなければと思っている

『「当たり前」の捉え方』

について書いてみようと思います。

みなさんは「当たり前」の捉え方次第で、私たちの人生が大きく変わることをご存知でしょうか?
私は最近、気がつきました(笑)

私たちの人生とは、日々の暮らしの集合体のようなものです。
1日1日が積み重なり1年という単位になります。(1歳年をとります)
そして1年という単位を何度も繰り返すことで、人生を築いていきます。

そう考えると、日々をどのような「心」で生きているのかが、そのまま人生に反映されていくことになります。

仕事でも、育児でも、日々の出来事に「豊かな心」で向き合うことができれば、人生はとても豊かで素晴らしいものになるはずです。

では日々の出来事に「豊かな心」で向き合うには、どうすればいいのでしょうか?

じつは今日『「当たり前」の捉え方』について書こうと思ったのは、『「当たり前」の捉え方』によって、私たちは「豊かな心」で生きていくための力をもらうことができると感じたからです。
「当たり前」に込められた「想い」を感じることができれば、私たちは「豊かな心」で人生を築いていくことができます。

今日は私が昨年体験した出来事をもとに、『「当たり前」にはどのような「想い」が込められているのか?』を説明させていただきます。

「当たり前」に込められている素晴らしいギフトを、ぜひみなさまにも受けとっていただければと思います!

 


「当たり前」は多くの「想い」によって形作られている

みなさんにとって「当たり前」とは、どのようなことですか?

ご飯を食べれることでしょうか?

お風呂に入れることでしょうか?

家があることでしょうか?

家族や友人がいることでしょうか?

健康でいられることでしょうか?

教育制度が整っていることでしょうか?

医療制度が整っていることでしょうか?

私が生まれてこの方、上記のような物事は全て「当たり前」のこととしてありました。
私は上記のような「当たり前」の物事を、「当たり前」として捉え生きてきました。

しかし20代の時に体に問題を抱えるようになり、今まで感じていた「当たり前」が崩れる経験をします。
腰のヘルニアになり、CRPSと呼ばれる神経の病気を併発し、歩くことが難しい時期があったからです。

私はこの時はじめて、健康でいられることは「当たり前」ではないことに気づくことができました。

よく言われることですが、「当たり前」の反対語(対義語)は「感謝」です。
私は健康でいられる体を失って、はじめて「当たり前」の捉え方を変えることができました。健康な体でいられることは、「当たり前」ではなく、とても「感謝すべきこと」なんだと。
しかしこの時はまだ、「当たり前」の捉え方が少し変わった程度で、まだまだ浅い段階でした。

なぜなら「当たり前」を形作っている「想い」に気づくことができていなかったからです。

私は健康な体でいられることには「感謝」をしていましたが、病院への「感謝」は皆無でした。
(腰の手術が失敗したこともあって)

病院があることは「当たり前」

病院で病気を治してもらえることは「当たり前」

健康に関しては、少しは感謝できるようになれたのですが、その他のことに関しては「当たり前」と感じてしまうことが多々ありました。
しかし昨年、ある出来事をきっかけに「当たり前」を形作っている「想い」を強く感じる経験をします。

じつは昨年、また大きく腰を痛めてしまったんですね(笑)
今度は仙腸関節と呼ばれる腰の重要な部分をひどく痛めてしまったようで、一生付き合っていく痛みが増えてしまいました。
(自業自得ですが 笑)

病気になるのは辛いことですが、病気になることで気づけることもたくさんあります。

特に「当たり前」に込められた「想い」を深く感じることができたことは、今後の人生にとってかけがえのないものになると確信しています。

今私がお世話になっている病院では、先生が診断した結果をもとに、理学療法士の方が病気の根本を治す治療を行なってくれます。
痛みの原因になっている部分の負担を軽減するための体幹を鍛える方法や、痛みを和らげるストレッチなども教しえていただきました。
病院にはリハビリに役立つ設備が充実しています。スポーツジム並みにリハビリに役立つ機械が揃っており、運動療法により痛みの根本を改善する取り組みも行われています。
(設備は充実しているので、あとは各個人の努力次第です 笑)

医療というのは年々進化しており、昔は対処できなかったことにも、時代と共に対処できる方法が確立されるようになりました。

私が痛めた仙腸関節についても同じです。
私は腰が痛くてまっすぐ腰を伸ばすことができないほどの時もあるのですが、リハビリで教わった柔軟運動をすると、不思議と痛みが軽減され、腰を伸ばすことができるようになります。
(体とは様々なところが繋がっているようで、痛めている腰ではない股関節などを伸ばすことで、腰の痛みが軽減されます)

医療の発展のおかげで、私は日々の生活を、痛みとうまく付き合いながら送ることができています。

しかし、もしこの「当たり前」に受けることができる医療が発展していなければどうでしょうか?

私が教えていただいた「柔軟」などの痛みに対応する方法もそうですし、体幹トレーニングや運動療法もそうです。
今となっては医学的には「当たり前」と思えるこれらの方法もすべてありません。
もしかすると生まれた時代によっては、私は寝たきりになっていた可能性さえあります。

考えるだけでもとても恐ろしいことです。それと同時にこんなことも考えるようになりました。

『医療の「当たり前」はどのように確立されたのだろうか?』と。

この時私が感じたのが、「当たり前」に込められている「想い」についてです。

私と同じような痛みを抱えた人を、多くの人が「どうにかして痛みを楽にしてあげたい」と想い行動してくれたかこそ、今の医療の発展があるのではないでしょうか?

体の構造を研究してくれた多くの研究者たち。治療法を考えてくださった医療関係者の方々。リハビリの機械を考え出してくれた人たち。彼らの仕事を支えているたくさんの人たち。
もちろん最初から全ての治療法やシステムが確立されていたわけではありません。失敗を何度も繰り返し、それでも諦めずに「強い想い」を持ち、取り組み続けてくれた人たちのおかげです。

私は「病院があることが当たり前」「病院では病気を治せることが当たり前」という感覚でしたが、このように「当たり前」に込められている「想い」を感じると、とても「当たり前」と言うことはできません。

ここまで医療を支えてくれた全ての人の「想い」が、今の私を支えてくれているのですから。

今の医療の「当たり前」は、多くの人たちの愛ある「想い」によって形作られています。
このことは医療以外の、他の「当たり前」に関しても同じです。

雨風をしのげる家に暮らすことができるのも。水道から水が出るのも。電気がつくのも。
近所のスーパーで気軽に食材を購入することができるのも、学校で勉強ができるのも、他にも・・・

私たちの周りにある「当たり前」は、多くの人たちの「愛情」「思いやり」といった素晴らしい「想い」から生まれたものが、たくさんあります。
多くの時代、数え切れないほどの人たちの「想い」がつながり、今の「当たり前」は形作られています。

「当たり前」から「想い」を感じることができれば、私たちは生まれた時からずっと多くの人たちから愛情を受け育ってきたことがわかります。
たとえ自分が愛情を受けて育っていないと思っている人であっても。自分は恵まれない環境で育ってきたと思っている人であっても。

誰もが多くの「想い」によって支えられ、生かされています。

 


「心」が満たされた時

私たち人間は、満たされることで幸せを感じようとします。

私も人間なので(笑)、お金が欲しいですし、贅沢な生活、楽な生活をして生きていけたらと思うことはあります。
自分の「欲」を満たすことで幸せになれると思ってしまうことがあります。

しかし「当たり前」に込められている「想い」を受け取ることができた時、私の中にある「欲」はとても小さくなります。
「欲」を満たさなくても十分「幸せ」を感じている自分がいるからです。

私たち人間は、誰かの温かい「想い」を受け取ることで、十分満たされることができます。
私たちは「心」が満たされた時、「豊かな心」を持って行動できるようになります。
(すでに満たされているので、「欲」で満たす必要があまりなく、「想い」を重視して行動できるようになります)

その「豊かな心」が、素晴らしい人生を形作る「力」となります。

仕事であれば、「欲」よりも「想い」を大切にすることができるようになり、より成果が期待できます。
仕事とは、誰かの求めるものを提供できた時、初めて「価値」が生まれます。(お金になります)
そう考えると、「欲」を持った考えで仕事に取り組むより(自分の利益ばかり考えて仕事に取り組むより)、相手への「想い」を大切に仕事に取り組めた時のほうが、相手にとってより価値あるものを生みだすことができます。
(やらしい話、相手にとってより価値あるものを提供できれば、よりお金を稼げることにもなります 笑)

子育てであれば、子供の可能性を最大限に引き出してあげることができます。
私たちの「心」に余裕があれば、子供の全てを受け入れることができます。良いところも、悪いところも。
他人と比べたり、型にはめようとせずとも、どの子供にも素晴らしい可能性が秘められていることがわかります。
型にはめられた子供と、自分の持っている可能性を認めてもらえた子供、どちらが生き生きと成長し人生を歩めるかは明らかですよね。

子供が生き生きと成長してくれれば、それが何よりの素晴らしいギフトとして自分に返ってきますし。

このように「当たり前」に込められている「想い」を受け取ることで、私たちは満たされた「心」で人生を歩んでいくことができるようになります。
「豊かな心」で広い視野を持って物事に向き合うことができるようになります!

 


豊かな心で日々の人生を

今日は「当たり前」に込められている「想い」について書いてみました。

「当たり前」とは見方によって、まったく違うものに変わります。

「当たり前」に込められている「想い」を感じることができれば、私たちの「心」はいつでも満たされることができます。
逆に「当たり前」を「当たり前」と思ってしまうと、不平不満ばかりを感じてしまいます。
「あれが欲しい」「これが足りない」と文句ばかりになってしまい、いつまでも「心」は満たされません。

「当たり前」の捉え方次第で、私たちの人生は満たされたものにも、満たされぬものにも変わります。

満たされた「豊かな心」で日々の出来事に向き合うことができれば、豊かで素晴らしい人生を築いていくことができます。

もちろん私たちは人間ですので、何事も完璧にできるとは限りません。
いつも「当たり前」に込められた「想い」を感じ、豊かな心になることができれば理想的ですが、それほど人生は甘いものではありませんよね。
私も偉そうに書いておきながら、心に余裕のない時は「当たり前」の「想い」を感じるどころか、不平不満ばかり言ってしまうので(笑)

ただ人生を歩む中で、『多くの「想い」に支えられている。』『温かい「想い」に生かされている。』ということに気づいていれば、いつでも豊かな心で人生を築いていく「力」をいただくことができます!
「不安」になった時、「病気」になった時、「孤独」を感じた時、「心」の余裕をなくした時には、ぜひ自分の周りには多くの「想い」が見守ってくれていることを思い出してください。

きっとあなたの苦しみを癒してくれる、素晴らしい「力」となるはずです!

 

「当たり前」に込められた「想い」を意識しながら、この一年、これからの人生を「豊かな心」で生きていければ素晴らしいことだと思います。
みなさまにもぜひ、「当たり前」から素敵なギフトを受け取っていただき、日々の生活に活かしていただければと思います!
きっと今までよりも「豊かな心」で、1日1日を歩んでいくことができるようになるはずです!

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