「心で考える」。1番大切で、1番難しいこと。

原子爆弾を投下されて72年、私達が向き合わなければならないことは?

原子爆弾が広島県に投下されたのが1945年8月6日、長崎県に投下されたのが8月9日。
今からもう70年以上前の出来事です。

私は30代なので戦争を経験したことがなく、もちろん原子爆弾の恐ろしさも体験していません。
今の平和な日本に住んでいると、こんな悲惨なことがたった70年前の出来事だったこともそうですが、たった2つの爆弾によって何十万人の命が奪われたという事実にあまりピンとこないというのか、現実の出来事ではないように感じるというのか、正直今まで原子爆弾の恐ろしさ、悲惨さについてあまり深く向き合い考えることができていなかったように思います。

今日8月9日は長崎に原子爆弾が落とされた日であり、テレビでは長崎県の「平和公園」で開かれたの原子爆弾の犠牲者を追悼する式典が放送されていました。
(この文章は8月9日から書いていたので「今日」とさせていただきます。)

長崎市長をはじめ、原爆体験者の方の話、子供達の願いを込めた「歌」。

長崎市長の「日本が核兵器のない世界を目指して先頭に立っていくと言っていたにもかかわらず、核兵器禁止条約に不参加だったことへの不満」「核の傘に依存する政策を見直すべきだという提言」、これらを聞いて、核兵器(原子爆弾)について私達は深く考えなければならないと感じました。
これは長崎市長の発言ですが、この人類で唯一、原子爆弾の痛みを知った人達の声そのものだと感じたからです。

 

誤解を生む書き方になってしまうかもしれませんが、私は原子爆弾を作った人達のことを正直、「すごい」と思っています。
もちろん原子爆弾だけでなく、戦争に使われる技術以外にも私達の身近にあるものも含めて、「人間ってすごいな」と思える技術が社会には溢れています。

ただそれと同時に思うのが、優れた技術、優秀な人達がいる国々は、なぜその素晴らしい力を悪い方向に使ってしまうのか?なぜ私たちは恐ろしい技術、手に負えない技術だということを経験したのにもかかわらず、その力に頼ってしまうのか?ということです。
そして原子爆弾を投下され、原子爆弾の悲惨さを知った日本がなぜ「核兵器禁止条約」に賛成できないのか?

これらについて考えてみると、すべてのことに当てはまる原因があるとするなら、それは私達人間の「心の弱さ」ではないのか?と私は思いました。

本当はみんな心のどこかではわかっているはずです。

戦争はいけないこと。核兵器を使用するなんていけないこと。核兵器は人間が手にしてはいけないものだということ。

思いの大きい小さいにかかわらず、自分の心を見つめれば、ほとんどの人達の心にはどこかにこういった気持ちが少なからずあるはずです。

でも現実問題、隣国に脅威があれば武力に頼りたくもなります。核兵器の力をちらつかせることにより国の力を誇示したくなります。自分達の身を守るために核兵器の脅威を利用したくなります。

これは人間なら誰もが少なからず持ってしまう感情なのかもしれません。
でも核兵器が国を守るために必要だという考え、他の国への抑止力になるという考えが引き起こしたことは、北朝鮮のような国までもが核兵器の力に頼るという非常に危険な状況です。
私達の核兵器に頼ろうとする「心の弱さ」が、このような事態を招いてしまいました。

もし広島や長崎で核兵器が使用された時に、あの悲劇や核兵器の恐ろしさに心から向き合い、核兵器に頼ることをやめるという選択をする「心の強さ」があったなら、今のような核兵器の恐怖に晒されることはなかったはずです。
核兵器を抑止力にし国を守るという考えが、北朝鮮のような国にまで広がり、結局、核兵器が争いの火種になるような状況を作ってしまいました。
そして原子爆弾の被害にあった日本でさえ、「核兵器禁止条約」に不参加という事実からも分かる通り、核の傘の依存から抜け出す勇気を持てずにいます。

これらの事実を見てみると核兵器に頼ってしまったこと、核兵器を抑止力にするということは「間違いだった」ということが言えるのではないのでしょうか?
「間違いだった」ということに、私達が、世界の国々が向き合い、反省しなければいけないのではないのでしょうか?

もしこのまま自分達の保身のことばかりを世界のリーダー達が考え続け、核兵器に頼ること、抑止力にすることは「間違いだった」と反省できなければ、同じようなことが起こり続けるのではないのでしょうか?(たとえ、北朝鮮の問題を解決できたとしても)
もしくは核兵器の恐ろしさを改めて感じるようなことが起きてしまうのではないのでしょうか?
(考えたくはありませんが核兵器で痛みを感じるような出来事が起きてしまうかもしれません)

私達人間には誰でも「心に弱い部分」があると思います。自分達の目先の暮らし、目先の安全を優先したくなるのが人間というものだと思います。
(もちろん、私にもそういった心の弱さがあります)
ただその「心の弱さ」が原因で今の私達は、核兵器に対して「何が正しくて、何がいけないのか?」を考えられなくなってしまっています。
私達には「心の弱さ」を克服し、核兵器の問題に対して正しい心で向き合う「心の強さ」が必要です。

ではどうすれば核兵器の問題に対して向き合う際に、私達は「心の弱さ」を克服することができるのでしょうか?私達人間が犯した「間違い」に向き合い、「正しい判断をする勇気」を持つことができるのでしょうか?

私はこう思っています。

核兵器の恐ろしさを深く感じ、原子爆弾の被害にあった広島、長崎の人達の声を聞く「心」を持つことが、私達人間が核兵器に対して向き合う際の「心の弱さ」を克服する力になり、間違いに向き合い反省し、正しい判断ができる「心の強さ」を持てるようになると。

ではなぜそのように思うのかについては、ちょっと長くなりそうなのでまた次回に書かせていただきたいと思います。

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