「心で考える」。1番大切で、1番難しいこと。

「諦める」のではなく「受け入れる」ことができるように

みなさんは「諦める」と「受け入れる」の違いについて、考えたことはありますか?

「諦める」と「受け入れる」という言葉は、どちらも同じような意味だと感じる方もいらっしゃるかと思います。例えば、「プロ野球選手になることを諦める」と「プロ野球選手になれないことを受け入れる」だと、どうでしょうか?

少し違うような気もしますが、どちらも同じ意味のようにも感じますよね(笑)

「諦める」「受け入れる」、どちらも「大きな壁」「限界」といった「困難」にぶつかる状況は同じです。

しかし、同じように「大きな壁」「限界」といった「困難」にぶつかった場合でも、「諦める」と「受け入れる」とでは、「心境(心の状態)」に違いがあります。

「諦めてしまう時」というのは「心に余裕がない」ので、「自分の可能性」に気づくことができません。
対する「受け入れることができる時」というのは「心に余裕がある」ので、「自分の可能性」に気づくことができます。
同じ「困難」にぶつかった時に、「諦めてしまう時」と「受け入れることができる時」では、その後は正反対になります。

なぜなら「受け入れる」とは「諦める」ことではなく、「自分の可能性を諦めないこと」だからです。

今回は「諦める」と「受け入れる」、この2つの違いに関して、私なりの解釈を書かせていただこうと思います。

「諦める」のではなく「受け入れる」ことが、「自分の人生にどれほど重要なことなのか?」を知っていただき、みなさんが人生で直面する「困難」に対して、「諦める」のではなく「受け入れる」ことができることを願って。

 


「諦める」、「受け入れる」の違い

「諦める」と「受け入れる」の大きな違いは、「困難」に直面した時の、「心境」の違いです。
「困難」に直面した時の「心境」が違うので、「困難」に対応する方法が変わってしまいます。もちろん対応する方法が変われば、その後の状況、大げさに言ってしまえば、その後の「人生」も変わることになります。

では「心境」が違うと、「対応」や「その後の状況」は、どのように変わってしまうのでしょうか?
これより「困難」に直面した時の、「諦める」と「受け入れる」との違いについて、考えてみようと思います。

 

・「困難」に対して「逃げるか」「向き合うか」

「諦めてしまう時」と「受け入れることができる時」の違いは、「逃げること」を選択してしまうか、「向き合うこと」を選択できるかの違いです。

 

「諦める」とは、「困難」に直面した際に生じる「不安」や「恐怖」から逃げ出してしまうことです。「困難」から離れることで「苦しみ」から逃れようとします。
しかし「困難」から「逃げる」ということは、同時に「困難」に対して「考えない」ということにもなります。
「困難」に対して考えることをやめてしまえば、考えることで見えてくる「自分の可能性」に気づくことができなくなります。

「諦める」とは、「困難」から逃げだし、同時に「自分の可能性」に気づく機会を手放してしまうことです。

 

対する「受け入れる」とは、「困難」に直面した際に生じる「不安」や「恐怖」から、逃げずに「向き合う」ことです。逃げ出さないので「不安」「恐怖」といったものから離れることはできませんが、その「苦しみ」も含め「困難」としっかりと向き合い考えます。

「困難」に「向き合うこと」で、「自分に足りないもの」「自分にできないこと」にしっかりと目を向けることができます。
「自分に足りないもの」「自分にできないこと」をしっかりと認めることができれば、「足りない部分」「できない部分」を改善するための方法を考えることができます。
「自分に足りないもの」「自分にできないこと」にしっかりと目を向けることができれば、次に何をするべきなのかが見えてきます。

また、「自分の限界を感じる壁」に直面した場合などにも、「向き合う」ことができれば、他の道を探すヒントを得ることができます。
「自分の限界」をしっかりと認めることで、「自分には何が残されているのか?」「自分はどんなことならできるのか?」を考えることができます。
1つの道が閉ざされても、「自分の可能性」に気づくことで、新たな道を探すことができます。

「受け入れる」とは、「困難」に向き合うことで「自分の可能性」に気づく機会を得ることです。

 

・「病気」に対して「諦めた時」「受け入れた時」

これは私の話になりますが、私は10年ほど前に、腰のヘルニアになり、その後、「痛み」を感じる神経がおかしくなるという「CRPS」という病気を併発してしまいました。
CRPSを併発してから最初の半年は、家から出ることも難しいぐらいの痛みと麻痺に苦しめられました。

ただ10年ほどたった今では、多少の「しびれ」や「痛み」を感じることはありますが、運動はある程度までならできるようになりました。健康な時と比べると気を使わなければいけないことは増えましたが、工夫をすれば日常生活で困ると言うほどでもありません。

自分では『ある程度「病気」を受け入れて生きることができているんじゃないのかな。』と思っています(笑)

ただ、最初から「病気を受け入れることができたのか?」と聞かれると、全然「受け入れる」ことはできていませんでした。
最初は『「諦める」と「受け入れる」、どちらの状態だったか?』というと、間違いなく「諦める」という状態でした。

私が病気になって最初の頃は、「自分は普通の人と同じようにはもう働けない」、「大好きな運動はもうできない」と、「できないこと」ばかりを考えてしまいました。手術は失敗し、後遺症も残り、踏んだり蹴ったりといった状況だったからです。

「手術は失敗し、医学ではもう治すことができない。」「どうしようもない。」、このように「不安」や「恐怖」で覆われている状態でした。
「不安」や「恐怖」で先が見えないことが苦しかったのでしょう。自分でも気づかぬうちに、自分の病気と向き合うことを避けるようになりました。毎日テレビを見たり、ゲームをしたり、甥っ子の面倒をみて気をそらしたり。

これが私がいう「諦める」という状態です。病気という「困難」に向き合うことから逃げ、「自分の可能性」が見えなくなってしまった状態です。

ただここで1つよかったのが、甥っ子の面倒を見ていたことです。甥っ子のおかげで心が癒され、少しずつ「心」に余裕ができ、病気という「困難」に向き合うことができるようになりました。
病気に向き合うことで「自分にできないこと」を認め、「自分にできることは何か?」を考えられるようになります。

 

普通の人のように何時間も動いたり、座ったりはできない体になってしまった。

じゃあどれくらいなら動けるのか?どれくらいなら座れるのか?休憩を挟めばどうだ?

1時間ぐらいなら歩くことはできる。2時間ぐらいなら座っていられる。休憩を挟めば、1日に4時間は座ることができる。

 

CRPSの影響で地面に足をつけたままでいると「かかとが痛くて立っていられなくなる」という症状がでてしまった。かかとが痛くなるのは地面の硬さを異常に感じとってしまうからだ。

クッション性の高い靴底はないだろうか?

特殊な靴底の存在を知ることができ、靴もクッション性の高いものを履くことにした。

痛みを和らげて少しの時間なら歩くことができるようになった。

 

大好きなサッカーはできない。

じゃあ何ならできるのか?ランニングぐらいはできるんじゃないか?

30分走ることはきつかった。

15分走り、あとは歩いてみよう。休憩をはさみつつ走ろう。

筋力が低下することを防ぎ、同時に異常をきたしていた筋肉が、徐々に動くようになった。

 

腰の筋力トレーニングはできない。

体幹トレーニングはどうだろうか?しかしやってみると痛みや痺れを感じてしまう。

体幹トレーニングをすることは今の自分には負担が大きく毎日は難しい。ただ週に2回ならなんとかやれそうだ。

体幹トレーニングのおかげで、長時間、椅子に座れるようになる。

 

このように病気の症状に向き合うことができれば、いろいろな可能性が見えてきます。
腰のヘルニアとCRPSになってから10年ほどたった今では、無理しない程度であれば、さまざまなスポーツができるまで回復しました!

これが私の身に起きた「諦めた時」と「受け入れた時」の違いです。

病気という「困難」から逃げていた時は、「自分の可能性」に気づくことができませんでした。もしこのまま「諦める」という状態が続いていれば、何も行動を起こせず、自分の人生は辛いものとなっていたかもしれません。
(大好きなスポーツも、できないままだったかもしれません。)

しかし、病気という「困難」に向き合うことで「自分の可能性」に気づくことができました。自分には「できないこと」は増えたけれど、「できること」が、まだまだたくさんある。自分の人生には「多くの可能性」が残されている。と。

「困難」に対してどのように対応するのか?「逃げるか」「向き合うか」で、自分の人生は大きく変わります。

 


「受け入れる」ために必要なことは?

「困難」に直面する時、私たちは「諦めるか」「受け入れるか」を無意識のうちに選択しています。

もちろん、どちらも選べる状態なら、誰もが「受け入れる」ことを選択するでしょう。しかしもし「受け入れる」ことを選択できるような状態でなければ、どうでしょうか?「諦める」ことしか選択できない精神状態なら、どうすればいいのでしょうか?

冒頭でも少し書きましたが、私たちが「受け入れる」ことができる時というのは、「心」に「余裕」がある時です。「心」に「余裕」があれば、私たちは、「困難」に向き合い考えることができます。
自分の現状を受け入れ、「自分の可能性」に気づく機会を得ることができます。

では「心」に「余裕」を持つためには、どうすればいいのでしょうか?「困難」に向き合い「受け入れる」ことができるようになるためには、どのように「心」に余裕を与えてあげればいいのでしょうか?

 

・「心」に「余裕」をもたらすために

じつは私たちの周りには、「心」に余裕をもたらしてくれるものが、すでに溢れています。誰の周りにも、「心」に余裕をもたらしてくれるものがすでにあります。

ただ、そのことに気づかず、「自分はもう無理だ」「もう限界だ」と、様々な物事を「諦める」という選択をして、一生を終えてしまう人がたくさんいます。

私もそうなりかけた1人です。

私が病気になった時は、「テレビ」を見たり、「ゲーム」をすることで「困難」に向き合うことから逃げていました。このままでは「困難」に向き合うための「心」の余裕を、いつまでたっても持つことができなかったはずです。
しかしこの時、私には「心」に余裕をもたらしてくれる「甥っ子」の存在がありました。今思うと、甥っ子の無邪気な笑顔に癒され、心に少しずつ「元気」をもらっていたんだと思います。

私たちが「心」に余裕を持つことができる時というのは、「不安」や「恐怖」といった「苦しみ」に覆われている「心」に、「光」を照らしてくれるような物事に接することです。

たとえば音楽には「癒し」や「勇気」、「希望」をもらえるような「歌」がたくさんあります。「海」や「山」などの自然にふれることは、私たちの「心」に「癒し」を与えてくれます。

友人や家族が寄り添ってくれ、アドバイスをしてくれることも、私たちの「心」に「光」を照らし、「余裕」をもたらしてくれます。
本やネットで探せば、同じような「困難」に出会った人たちの体験談や、「困難」にうち勝った人たちの経験談に「勇気」や「希望」をいただくことができます。
「自分1人だけじゃない。」と思えることが、私たちに「勇気」を与え、「心に余裕」をもたらしてくれます。

ペットを飼っている人は、ペットに「癒し」をもらえることもあるでしょう。テレビが好きな人はバラエティー番組を見て「元気」をもらえることもあるでしょう。映画や絵画などの芸術を見て、「勇気」や「希望」をもらえることもあるでしょうし。

あたなが病気なら、その病気に真剣に向き合ってくれるお医者さんを見つけることも、「心」に余裕をもたらすことにつながります。あなたが家庭の問題(子供や夫婦間の問題)で悩んでいるなら、アドバイスをくれる人達、本、情報が助けとなってくれます。

「運動」「音楽」「芸術」「家族」「友人」「専門家」「情報」、私たちの「心に余裕」をもたらしてくれるアイテムは、じつは気づいていないだけで、世の中に溢れています。「心」に余裕をもたらしてくれるアイテムは、世の中にたくさんあります。

そういった環境があることに目を向け、感謝し、活用する。
多くの助けがあることに気づき、感謝することができれば、それもまた「心」に余裕をもたらしてくれる「力」になります!

もちろん、「心」に余裕ができるまでには、時間がかかるものです。ただ少しずつでも「心」に余裕がでてくるようになれば、物事の見え方は確実に変わっていきます。「できないこと」だけでなく、「できることが」が見えてきます!

 


私たち人間は生きている限り、誰もが様々な「困難」に直面します。
私は病気という「困難」に出会いました。みなさんもおそらく何かの「困難」に出会ったことがあるでしょうし、「困難」に出会っている最中なのかもしれません。

「家庭での困難」「学校での困難」「社会での困難」「人生での困難」。
生きている限り様々な「困難」に出会う可能性はありますが、どのような状況でも、私たちは「諦める」か「受け入れる」かを選択する自由が与えられています。

時には「大きな壁」や「限界」にぶつかり、「諦める」という選択をしてしまうこともあるでしょう。苦しみから逃れようと、自分でも気づかぬうちに「諦める」という選択をしている出来事があるかもしれません。
しかし、いつでも誰にでも、「受け入れる」という可能性は残されています。
たとえ何年、何十年と「困難から逃げる」という状態が続いていたとしても、いつでも「向き合う」ことのできる可能性は残されています。

「心の余裕」がないのなら「心の余裕」を持つための方法を探してみる。「心に余裕」ができれば、「逃げる」のではなく「向き合う」ことを選択してみる。
「諦める」のではなく「受け入れる」ことができるようになれば、「自分の可能性」を諦めることなく、前を向いて人生を歩んでいくことができます。

 

偉そうに書いてきましたが、これは私自身にも当てはまることです。
私は今、大小合わせていくつかの「困難」に出会っています。人生を歩む限り、「困難」との出会いを避けることはできません。
だからこそ、人生で出会う様々な「困難」を受け入れ、「自分の可能性」を諦めずに生きていくことができれば、それはとても素晴らしいことなのではないでしょうか?

私は「諦める」のではなく、「受け入れる」ことを選んで生きていきたいですし、みなさんにも、そうであってほしいと願っています!

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    • ありす
    • 2021年 5月 30日

    自分本来の性格が受け入れられず、何十年も取り繕いながら生きてきました。ここに書かれている、受け入れると諦めるの違いが、心に響いたので、お礼を言いたくて。ありがとうございます。今はもう、ブログは更新されていないのですか?

      • muujin
      • 2021年 5月 31日

      コメントいただきありがとうございます!
      このブログがお役に立てたようで、嬉しく思います!

      ブログの方は、今ちょっとブログには向かない少し長めの文章を書いておりまして、そのため更新が滞っています。今書いているものが完成したら、ブログの方もまた再開する予定です!また時間があれば、ぜひ覗きに来てください!

      あとお節介になるかもしれませんが、この記事では書いていないことを一つだけお伝えさせてください。

      私たち人間は、自分のダメなところ、足りないところに目が行きがちです。「社会の価値観」や「他人との比較」をしてしまい、自分の「ないもの」ばかりを気にしてしまうことがあります。そのことが影響して自分を取り繕ってしまうこともありますし、「こうしなければいけない」「これができない自分はダメな存在だ」と自分を否定してしまうこともあります。そして「社会の価値観」という枠の中に当てはまなければいけないと、苦しんでしまう人もいます。

      でも落ち着いて考えてみると、私たち人間というのは、そもそもみな完璧にはなれないんですよね。
      私たち人間の歴史の中で、過去から現在までを通して、全ての事を完璧にこなせる人は、誰一人としていませんでした。というよりこれからもそんな人は現れないと思います。一見すると素晴らしと思える人でも、必ずどこかに欠点を持っているものですし、間違いを犯すこともあります。例えある分野で世界一と言われている人であっても。どれだけすごい人でも、誰かや何かの助けなしには生きていけませんし、完璧にはなれないのが、人間という生き物だと思います。

      それにみんな様々な特徴を持っているからこそ、人間社会はうまく廻るようになっていると私は感じています。

      みんなが記憶力が良い必要はありませんし、みんな運動神経だけがよくても社会はうまく廻りませんよね。料理が得意な人、農業が好きな人、お笑いが好きな人、掃除が得意な人、絵が得意な人、音楽が好きな人、いろんな人がそれぞれにできることをすることで、人間社会はうまく廻るようになっています。
      もちろん性格も様々だからこそ、同じ分野でもいろいろな考えが生まれます。優しい人だけではダメですし、頑固な人だけでもダメですよね。それぞれの性格から生まれた多種多様な考えを、より良い形で組み合わせることができれば、それがその分野の発展につながります。そしていくつもの分野が発展していき、それが長い年月の間、繰り返されることで、私たちが「進化」と呼ぶものになります。

      そう考えると、私たち人間はずっと成長過程にあると言えますし、自分に「ないもの」があっても当たり前なので、それほど気にする必要はないのかもしれません。それに「社会の価値観」や「周りと比較」することで、みんなと一緒じゃなきゃダメだと、自分自身のことを狭い枠の中で考えてしまうことは、自身にとっても社会にとってもためにはならないことになります。
      自分自身に与えられているものに目を向け、否定するのではなく、活かすことができれば、何らかの素晴らしい影響を、誰もが周りや社会に与えることができるのですから。そしてそれが自分自身の心の余裕や幸せにもつながっていきます。

      「自分らしさ」や「個性」を大切にしようと言われるようになったのも、同じ理由だと思います。

      逆に自分の「ないもの」ばかりを見てしまい心の余裕をなくしてしまうと、それが「妬み」や「僻み」などの感情を生み出し、周りに向いてしまうこともあります。今ネット社会で問題になっている、他人を猛烈に批判する人たちのように、自分の「ないもの」ばかりに目を向けていると、他人の「ないもの」ばかりに目が向いてしまいます。(批判している本人に自覚はありませんが、これは本人の心がかなり苦しんでいる状態にあります)

      これは人間であれば、誰にでも起こりえることです。だからこそ、自分の「あるもの」を見て、信じてあげることが大切です。

      ごちゃごちゃと理屈をこねてきましたが(笑)、結局何が言いたいのかというと、「私たちは誰もが完璧ではなく、欠点だらけだけれど、同時に素晴らしい可能性に溢れている」、そう私は考えています。否定したくなる部分は誰にでもありますし、誰かに憧れ何かになりたい気持ちにもなりますが、結局は「自分自身を知り、今自分にあるものを活かす。」それ以上でもそれ以下でもないのではないでしょうか?

      そのために、「自分の存在そのものに感謝し、少しずつでも自分を受けとめてあげること」が、多くの人にとって必要なことだと思いますし、私自身も大切にしていかなければならないことだと思っています。

      ついつい長くなってしまいました。的外れなことを言っている可能性もありますので、その時は受け流してください(笑)

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